私が見た世界

第6回 日中国交回復の大平正芳と北京外国語大学

政策研究大学院大学
小松正之
2014年1月8日

北京外国語大学とは
 北京外国語大学は、前身が1941年に設立された抗日の語学学校である延安外国語学校で、1949年中華人民共和国の成立とともに外国学校と合併し、北京外国語学院となる。そして1951年に北京ロシア語学校を吸収合併した。1994年に北京外国語大学に名称変更を承認され、現在の大学となった。現在は49の外国語と中国語のプログラムを有し、その中には英語学校、ロシア語学校、日本語学部などがあり、これまで380名の大使を輩出した。学生は学部生が5000人、大学院生が1000人、外国人学生が1100人である。教授は110人、233人の准教授と278名の助教授がいる。中国屈指の名門大学の一つである。


北京日本学研究センター(北京外国語大学)と現代日本研究センター(北京大学)
 これらのセンターはより高いレベルの日本学と現代日本研究を目指す学生を支援しており、私は2011年から2013年の間、国際交流基金の招きで優秀な北京大学大学院博士課程の学生と北京外国語大学の修士課程の学生に講義する機会に恵まれた。これらは大平正芳首相が残した偉大かつ実践的なプログラムである。受講生はみな熱心である。北京大学は約20名で、16~17名が女性で、北京外国語大学は約12名のほとんどが女性で男子学生は1名程度である。最近はいずれの国も女性が元気である。


日中国交正常化と大平正芳首相
 ところで1971年、米国のキッシンジャー国務長官が北京を極秘訪問し、7月にはニクソン大統領が中国を訪問することを突然発表した。そして翌年ニクソン大統領が中国を訪問した。米国は其れまで台湾を支持し、日本も台湾支持派が多かった時代である。このニクソン訪中の発表は、直前まで日本には何の知らせもなかった。このことが日米間の関係にギクシャクした状態をもたらしたが、日中の国交の正常化を促進したとも言われる。
 他方中国も、1966年から始まった文化大革命が行き詰まりの頃で、中ソの関係も悪化した頃である。日本との国交の正常化と支援を欲したのだろうと考えられる。
 その頃、田中角栄氏と福田赳夫氏が自民党総裁の座を争った。争点の大きな一つが日中の国交正常化であった。
 田中角栄氏と大平正芳氏は総裁選で共闘を組み勝利し、田中角栄内閣総理大臣が大平正芳外務大臣と日中国交正常化に取り組む。これは当時の内閣の命運を左右する一大仕事であった。
 大局的なかじ取りは田中首相が行ったが、外交に不案内の田中氏は、外務大臣の経験があり、財務省の役人を務め、実務能力も高い大平氏に中国との交渉の全体を委ねた。両者の信頼関係がなせる技であったし、当時の外務省職員が大平外務大臣に全幅の信頼を置き、実務上の詰めを十二分につくした、日本外交史上も稀有な例と言えよう。


「大平文庫」
 北京外国語大学の北京日本学研究センターの1階は1972年9月日中国交正常化と1978年8月の日中友好平和条約の締結にも尽力した大平正芳元日本国首相の関連の書籍や遺品を展示してある。
 「大平学校」の後身として語られることが多いこのセンターは、1985年に日本の国際交流基金と中国政府教育部(教育省)との間で、中国における日本学研究の人材育成をめざし、日中両国の共同事業として設立されたものである。しかし、その前身であり、大平正芳首相が亡くなる前に訪中した際に締結した1979年「日中文化交流協定」に基づいて翌1980年に設立された「日本語研修センター」は、大平元首相の業績と貢献とともに中国では「大平学校」と呼ばれるようになっていたのである。
 そして2002年に大平正芳記念財団の支援により北京外国語大学の北京日本学研究センターの図書館に開設されたのが「大平文庫」である。そこには大平氏が毛沢東主席、周恩来首相や搶ャ平氏と一緒に撮られた写真、大平氏の著書などの記念品が展示してある


2013年11月、北京外国語大学の大平文庫の前に立つ筆者


大平正芳首相に次ぐ人物の輩出
 こだわりを双方が棄て、中国は戦後賠償を求めず、日米安保を容認した。日本も台湾との関係はあったが、世界の趨勢を見て現実的に対応した。翻って、最近の対立が目立つ日中関係を見るに小異を捨てて大同につき、そして両国の互恵的平和に貢献し、将来の人材を育てることに情熱を持つ人物の出現が待たれる。


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