私が見た世界

第5回 中国の名門校北京大学と精華大学とは

政策研究大学院大学
小松正之
2014年1月1日

北京大学の教授から北京大学と精華大学の沿革を聞く
 中国へは、何度も行った。台湾に数度、大連、上海とそして北京である。
 最近の三年間は、北京大学国際関係大学院と北京外国語大学北京日本学研究センターでの1週間の特別講義を行った。両校の大学院生に教えながら、教授陣とも昼食をはさみ、3年目ともなると話が随分と深まった。今年は、北京大学の教授陣に、北京大学の設立の経緯と沿革について聞き、たくさんの資料をいただいた。

北京大学構内の名所「未名池」の前に立つ筆者
北京大学構内の名所「未名池」の前に立つ筆者


日清戦争を契機に設立の北京大学
 1895年の日清戦争での清の敗北とその後の下関条約の締結は中国人に大きな憤りを生じた。そして、清の改革が必要との考えが広く力を持ち、康有為と梁啓超らが「維新変法」を唱え、清朝を改革しようとした。光緒帝は、教育改革を含むあらゆる政治改革を断行しようとしたが、守旧派の西太后により阻止され、教育改革以外の政治改革がストップした。
 1898年12月に北京帝国大学が発足した。日本の大学制度に倣ったと言われる。200名の学生が入学した。ところが1900年に義和団の乱がおこり、この間に大学は休止状態であったが1902年に、図書館を備え、再オ−プンした。教員の養成が目的の教育学部も1902年に設立され、徐々に学部も増加し、法学、芸術、医学、農学と政治学、エンジニアリングと商業等を教える体制が整った。その後の辛亥革命を経て1912年北京大学と名称を変えた。1877年に設立された東京大学は137年経った。


義和団の乱の賠償金で建学された精華大学
 清朝の改革が一方に進まない状況とキリスト教の布教など西洋の侵略に対する反抗から山東省で義和団の蜂起がおこり、それを日米など8か国が鎮圧した。賠償金を各国は清朝から得た。米国のセオドア・ルーズベルト大統領が「中国の近代化に必要な人材育成のために使ってほしい」と賠償金の1100万ドルをすべてこの条件付きで返還し1911年に設立されたのが、精華大学である。この大学は米国式の制度と教授法を取り入れた大学である。
 このため、精華大学を卒業後アメリカ留学し立身出世の道が開かれた。
 精華大学は理科系の専門に強いイメージを与えるが、もともとアメリカの大学に倣った総合大学である。学部を再編成し理系に重点を置き、北京大学は文科系に重点を置いた。


北京大学と精華大学から排出する人材
 現在の中国で、北京大学と精華大学は双方が突出する超名門大学であるが、一般に精華大学が第1位で、北京大学が第2位、そして上海の復旦大学が第3位にランク付けされる。
 精華大学の卒業生には、最近の共産党と政府要人が顔をそろえる。胡錦濤前主席と温家宝前首相と習近平主席である。
 精華大学の卒業生で元首相を務めた朱鎔基氏は、精華大の学長も務めた。
 北京大学の卒業生は李克強首相がいる。
 現在、卒業生の活躍と受験生の評価を見れば、精華大学が優れており、その差は年々拡大している。文科系に強く、自由な雰囲気が北京大学であるとの見方もあるが、精華大学は理科系でまじめで、丁寧に考えるとの見方もできる。


本当は強い中米関係
 現在でも優秀な学生は、ハーバード大、エール大やプリンストン大に留学し、中国も帰国した人材を国内で評価する。母校エール大学で恩師の教授と話した時のことである。「日本は教育のやり甲斐がない。ハーバード大やエール大で日本人学生を教育しても、国内に戻ると、それらの優秀な人材を処遇しない。そして、政治も経済も停滞している。中国や韓国は米で教育を受けた人材を登用する。」最近ハーバード大やエール大学などに日本人留学生を見かけない。中国人留学生が目立つ。
 この差は、ボデイー・ブローとして効いて来る。そして第2次大戦前にそうだったが、米中は知らぬ間に近い親しい国になり、日本は蚊帳の外か。基本的努力を怠り日米同盟などと言っていられない。


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