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太平洋を取り巻く国々と私

第23回 ハワイでの思い出

公益財団法人東京財団
上席研究員
小松正之
2015年9月8日
ハワイと日本への併合話

日本にとってハワイはもっと身近になったかもしれない。米国は西部のフロンテイアを開拓し、メキシコも併合した。どこにも領土拡張の場所のなくなった米国はフィリピンでスペインと米西戦争をおこした。その際にハワイ王は米海軍にハワイへの停泊補給を認めたところ、米国にとってハワイの軍事的価値を認めさせることになった。また一方で、米国から移民の白人が渡り、広大な農地を所有してしまった。ところで日本からハワイへの移民も1868年(明治元年)に開始されたが、移民は年々増加し総人口の40%を占めた(明治23年)。

このような時期に、米国の圧迫を感じたカラカウア王(写真1)は王位継承者のカイウラニ王女と日本の山階宮との結婚により日ハワイ併合を考えたが、王は10年後に死んで、この話は立ち消えになった。米国人は1893年に王政を打倒した。米国は1898年にハワイを併合した。



写真1;カラカウラ王


私とハワイ

エール大学院留学の帰国途上でハワイ・オワフ島に降り立った。1984年6月である。

3日間の滞在であった。日本人の新婚旅行客がとても多く、色が白くもやしのようであった。戦争の花嫁風の日本女性が多い。私達が商店に入って品物を見ていると直ぐに寄ってきて「これが似合う」とか「あれもよい」とか畳み掛けてきた。私達は無視していたら、次に米国人のご婦人と娘に話しかけ、ご婦人は「私の娘は自分の買い物は自分で決められる」と言って店員を追っ払った。

ワイキキビーチで娘が砂のついたサンダルで軽食堂に入ったら、店内で足跡が付いた。そしたら日本人の女主人が早速「うちは気にしませんが他の店では大事になります。」という。そして、掃除機で大きな音と埃を立てながら、客に構いもせずに掃除をしだした。

東にあるハナウマ湾へ海水浴に向かった。ここはエルビス・プレスリーの「ブルー・ハワイ」が撮影されたところで、サンゴ礁がある遠浅の海岸で多種類の熱帯漁が観察できるところであった。私は近眼で海中が見えない。すると、ミズーリ州のカンサス・シティ―から来た20歳台のOL風の米人女性が私のそばに来て、そのうちに「水中眼鏡を貸して挙げる。近視用の度付きのメガネである」という。よく見えて大変満足した。この女性は若くやさしかった。一瞬のうちに日本からの大量の観光客がバスで押し寄せたので、私達家族は早々に退散することにした。そしてオワフ島の西側の海岸に行ったらハワイとは思えないほど人影も疎らであった。私達家族は、ここでのんびり海水浴を楽しんだ。


フラダンスとポリネシアンセンター

ハワイに来たのだから「フラダンス」を見たいと思いダンス会場に行った。10時からのショーの開始であったが、10時になっても始まる気配がない。時間にルーズなのかと思っていたら、1時間の遅れで始まった。ロサンゼルスとの時差を私が1時間計算違いをして、早く会場に着きすぎたためと後で判明した。1963年にブリガム・ヤング大学が資金集めし建設したポリネシア文化センター(写真2)で、各島々の文化、ダンスと植物などを見学した。


マグロ交渉で訪問

2000年、私はハワイでの中西部マグロ類交渉に出席した。しかし条約の草案はほとんど出来ており、変更することが困難だった。前任者の交渉内容では日本にとって不利益が多いと判断した。(1)クロマグロ管理委員会はこの条約から切り離すこと (2)異議申し立て権を入れること、これらが認めてもらえない場合、私は日本が条約に加盟しないとの考えでいた。

米国の代表団からは歓迎された。また韓国とはこの際にミナミマグロ保存条約への加盟の交渉を事実上決着した。そして韓国代表団にも中西部太平洋まぐろ類条約に加盟しないように念を押したが、韓国は強くはなかった。日本も私が人事異動して総崩れとなった。「タフに国益を反映する交渉は日本人には酷なのだろうか。」と今でも思う。



写真2;ポリネシア文化センターで長女と1984年6月


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