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太平洋を取り巻く国々と私

第11回 モントレー湾の死と復活

アジア成長研究所
客員主席研究員 小松正之
2015年2月6日
モントレー湾の死

モントレーの沖は、カリフォルニア海流の南下と海底からの湧昇流が栄養塩をもたらし、豊かな漁場を形成する。18世紀に到来したスペイン人やフランス人が、この漁場に目を付けた、最初に商業的に売られたのはラッコ皮で、米国人は広東省の中国貿易商に販売した。清朝の上流階級が好んでラッコの皮製品を身に着けた。19世紀初頭で乱獲した後は捕鯨である。沿岸性の東太平洋系群のコククジラを捕獲した。

19世紀に中国人入植者がイカとアワビを乱獲した。これらの加工品の物資をもって中国に販売しようとした。そして、大西洋の資源とハワイ近郊の資源を獲りつくした米国の帆船捕鯨船が日本の近海で操業し、1853年ペリー提督による「日本の開国」の要求につながった。

その後、20世紀の初頭から乱獲されたのがマイワシである。マイワシは食用としての缶詰としてだけではなく、肥料用のフィシュミルや魚油になった。そのために工場の稼働力が向上して、資源状況は無視して漁獲が増大した。カリフォルニアで最盛期1936年には73万トンの漁獲があった。一方で、工場からの廃液はモントレー湾に垂れ流し状態となり、モントレー湾の海洋生態系は崩壊の状態に陥った。


偉大な女性市長ジュリア・プラット

乱獲を繰り返すモントレー郡の漁業者と缶詰工場経営者に心ある人は警告を発した。しかし大勢の人は、缶詰工場からの雇用と経済の恩恵を被っており、表立って反対しなかった。こんな時一人の女性が立ち上がった。環境や生態系を無視して産業を優先すると、モントレー湾の海洋生態系が破壊され、漁業・加工業と住環境も壊滅すると警鐘を鳴らした。モントレー市の隣接する街であるパシフィック・グローブ市のジュリア・プラット市長が最初の運動家であった。彼女は、海洋生態系を保護する「海洋公園(海洋保護区)」の設定1930年代に成功した。この公園は生態系回復に効果を示す。このころ、他にも心ある活動家がいた。「エデンの東」の著者でノーベル文学賞を受賞したスタインベックは内陸のサリナス市の生まれでこの地域をこよなく愛した。彼の精神的支柱で生物学者であり哲学者のリゲットや後にスター・ウオーズの作者として有名になるキャンベルらともに、生態系を取り戻すグループを結成した。小説「缶詰横丁」で人と自然の重要性を訴えた。それでも世界不況の影響の中で、最も頼るべきイワシ産業を縮小しろとの声には耳を傾ける人はいなかった。

そして、マイワシは、突然いなくなった。1947年のことだ。それ以降、マイワシは今でも戻らない


モントレー湾の復活

ジュリア・プラットが設定した海洋公園(海洋保護区)が功を奏して、先ずラッコが回復し、それがウニやアワビを食べだした。その結果、それらが餌にしているジャイアント・ケルプが缶詰工場からの内臓の投棄や廃液もなくなり、。それが生育しだした。海藻が戻ったら魚類が戻り海産哺乳動物や鳥類も戻った。

これに合わせて、廃棄された缶詰工場改修と街づくり計画が開始された1970年代後半のことである。パッカード財団も街づくりのプロジェクトへの拠出を決め、デビット・パッカード氏自身が最も大きな廃棄缶詰工場をモントレー水族館へ改造する計画に参画した。

1930年代から現在まで、多くの人々の力でモントレー湾の自然を取り戻した。自然と一体で人間は生きることが大切であるとの考えが実った。プラット市長やスタインベックらが活動を開始してから、現在まで80年を要している。この考えをわが生まれ故郷の陸前高田市広田町で再現したい。東日本大震災で被災し、人々の心や産業が疲弊している。何とか昔の賑いを取り戻したい。広田湾もその面影がない。気仙川が流入し豊かな栄養をもたらす。かつてはイワシが大量にわいた豊かな海だった。それを追ってナガスクジラが入り込んだこともある。


スタインベックの小説「Cannery Row(缶詰横丁)」の舞台モントレーの街並み

写真 2009年9月海藻が回復したモントレー湾 筆者撮影


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