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太平洋を取り巻く国々と私

第3回 オーストラリアの発見と入植

国際東アジア研究センター
客員主席研究員 小松正之
2014年9月20日
オーストラリアの国名の由来

私は1988年ローマの国連食糧農業機関(FAO)を担当する日本政府代表部に勤めていたころ、FAO勤務の英専門家からオーストラリア(Australia)は南の国の意味でオーストリア(Austria)は東の国の意味だと教えられた。その後、書物で「Terra Australis Incognita」(未知の南の大陸)の名称に頻繁に出会う。

「北半球の陸地の広さに比べ重量でバランスが取れる大陸が南半球に存在するはずとの考えが16~18世紀の欧州にあった。この未知の南の大陸を求めて、欧州の探検家と科学者は航海にでるのである。


オーストラリアへの到達はオランダ人

スペインとポルトガルは金銀と香料を求めてインドネシア内海のモルッカ諸島を発見した。中国人はナマコや香料を求めてインドネシアとフィリピンに南下した。インド商人やイスラム商人もやってきた。彼らは、オーストラリア大陸には達しなかった。

17世紀オランダは、タスマンらを派遣する。タスマンはオーストラリア西海岸とカンタベリー湾、ニュージーランド西海岸とタスマニアを発見した。しかしオーストラリア東海岸発見はキャプテン・クックの航海を待つ。彼は、オーストラリア東海岸、ノーフォーク島、ニュージーランド全島とタスマニア島を確認する。そして彼は「Terra Ausutralis Incognita」、オランダ人が「ニュー・オランダ」と名付けた大陸がそれに相当すると結論付けた。この大陸が「オーストラリア」と呼ばれる。


豪への入植

1768年からタヒチでの金星と太陽の接近の観測を目的とした航海を含め3度の太平洋の航海を実行したキャプテン・ジェイムス・クックは、大英帝国のオーストラリア東海岸に入植を勧めた。その適地として、シドニーの南にあるボタニー湾を勧めた。

このころ英国は産業革命が進展し、社会の貧富の差が広がっていた。ロンドンでは生活困窮者が、泥棒や窃盗をし、食料や衣料品を得て日々をしのいでいたが、捕まり判決を受け、簡単に「絞首刑」とされたが、7年程度に減刑された。これらの犯罪人を収容する刑務所や収容船も不足し英政府は、プランテーションの労働力として、米植民地に大量に送付していたが1775年に独立戦争がはじまり1783年には米国が独立すると、囚人を米大陸の旧植民地に送り込むことが不可能になった。そこで対象となったのが、オーストラリア東海岸である。

ここに囚人を送り込むことを英政府や漸く決定した。監視する海兵隊員と家族を含めフィリップ・総督の監督下で派遣する。そして1787年の5月11日にプリマス港などを出航した約約1500人の囚人、海軍人、海兵隊員と船員が69名の死者(大半が病人と老人)を出しながら1788年1月20日ボタニー湾に到着する。

しかし、其処は飲料水となる水も農耕用の適地もなく、フィリップ総督は即座にその地を放棄する。そして、約10キロ北にシドニー湾(写真)を発見し、上陸を決定する。1月26日である。この日が「オーストラリア・デー」となり、国民の祝日である。


苛酷な入植

シドニー湾も、水と良港は提供したが、木材も食料生産のの適土壌は、少なかった。この第1次囚人派遣船隊の誤りは、農業の技術を有した専門家や知識を有した囚人を連れてこなかったことである。フィリップ総督は2隻の船隊を派遣し、ケープタウンで食糧と家畜の調達を行い、また、一部をノーフォーク島での入植での農耕と漁業を進めた。それらが功を奏し、危機的状況を一時的に回避することができた。


政策転換が成功の鍵

しかし、入植が本格的に成功するのは、囚人を送る政策から転換し、通常の入植者で、農業や羊毛業などの技能を有する者を送り込んでからである。しかし、入植者と囚人で刑期を終えて、定住する者との間で豪社会は新たな摩擦の問題を抱える。その問題解決のために総督が何度か交代した。いばらの道である。そこには苦労と戦いと改革の精神があった。


波ひとつない穏やかな太平洋のど真ん中のミクロネシアのポンペイ島と朝日

(写真:2014年6月シドニー湾とシドニー市街地を東の海上から望む。
右にオペラハウスとハーバーブリッジが見える。)


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