本当は自由主義者のカール・マルクス
スぺ−バー米ミズーリ大学教授著「カール・マルクス」は650ページに及ぶ大著である。1920年にソ連で始まったマルクス研究を東独が受け継ぎ1989年の東西ドイツの統合でコール首相が本研究にテコ入れする。それを集大成した著書である。読後に、私にマルクス観が一変する。
それまで、共産主義とは一党独裁で、拘束と不自由であるとの理解でいたが、マルクスの求めるものは、自由と平等と民主主義と博愛だった。
ユダヤ人嫌いのマルクス
カール・マルクスは1818年にドイツ・ライン川地方の古都トリールに生まれた。父親も母親ユダヤ人であったが、この地方が仏からプロシアの勢力下にはいり、父は役人としての職を得るためにプロテスタントに改宗する。カールも後にカソリックに改宗するが、生涯ユダヤ人は嫌いであった。
エンゲルスもユダヤ人で、工場共同経営者である資本家の息子として1820年にエルバーフェルトに生まれた。ギムナジュウム(大学の予備門)を中退したが、語学の才能があり、ロシア語や英語をはじめ多くの言語を自由に操った。マルクスが独語でしか文章が書けず、英語訳はエンゲルスが支援した。
二人のパリでの出会い
マルクスは、ボン大学では故郷から来た学生たちと交わり勉学に励むところがなく、怒った父は、ベルリン大学の法学部に転校させた。しかし、彼は、思想家と交わり、勉学がおろそかになり、自分のメンター(精神的助言者)であったバウアーらとプロシア政府の自由の抑圧政策を批判して、国外退去処分を受ける。
マルクスはパリに亡命した。そこで社会主義活動や出版を続け、プロシアを倒そうとした。この亡命生活の中で出会ったのがフレデリック・エンゲルスであった。マルクスは一度盟友関係になった者でもすぐに喧嘩し徹底に容赦なく攻撃した。それが、エンゲルスとは意気投合したのである。エンゲルスはマルクスの優れた能力に気づき、生涯支援する。エンゲルスがマルクスを尊敬し接したことが要因であろう。
4歳年上のジェーンとの結婚生活で生活費が無くなったマルクスを何度も支援した。彼はその後ロンドンに亡命し、大英博物館に入り浸り、アダム・スミスとその弟子のリカルド、やマルサス、ジーン・バプチスト・サイ、ジョン・スチュワート・ミルを研究し彼らのいくつかの考えを肯定した。共産党宣言を書きあげフランス革命を分析する。そして、経済学者から学んだ負の側面に視点を当て資本論を書く。たぐいまれなる努力と才能の人であった。
フランス革命と産業革命が生んだマルクスとエンゲルス
フランス革命はヨーロッパ中に自由と平等の息吹をもたらした。オーストリアによってまた反動の封建時代に戻される。1848年の革命がおこり自由とドイツの統一を求めた。
イギリスの産業革命は、19世紀半ばにはドイツにも波及した。土地所有者(ユンカー)に代わり、工場を所有する資本家が勢力を得た。時代は新しい方向に動き出した。資本家と労働者の階級闘争の始まりであった。ドイツも国家統一と憲法や議会など新制度が必要となった。マルクスとエンゲルスの活躍の場であった。
マルクスの能力とエンゲルスの人間性が世界を変えた
エンゲルスはマルクスと絶縁状態になった。夫人の逝去をマルクスに手紙で知らせ、返信で金の無心が来た時である。しかし、その絶縁も解消される。マルクスは借金取りから追い立てられエンゲルスの支援金も返済に充てず、子供たちの学費や習い事に充てた。エンゲルスは文句を言わずに援助を続けた。
このような人間関係があるのだろうか。マルクスの知的高さと思考力がなければ共産主義もなかった。しかし、エンゲルスがいなければ「資本論」も「共産党宣言」も出版されず、ロシア革命、中国の革命やキューバ革命をもなかったろう。
二人ように深く信頼に満ち影響力のあったものは世界史上にも例を見ない。人間関係とは力強い。
晩年のカール・マルクス
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