地震保険を語る

(第五回)地震保険が立っていたスタートライン


 前回、地震保険が東日本大震災によって、初めて高い評価を得ることになったと述べた。今回から、その背景について、少しずつ記してみよう。
 地震保険が誕生した1966年(昭和41年)頃、日本の国力はまだまだ小さいものであった。筆者は当時中学生であったが、子供のための年鑑に自動車保有台数を表す絵が書いてあり、アメリカは一家族が一台の自動車に乗っているのに対し、日本の場合は、一台の自動車に完全に溢れてしまうほど多くの人々が乗っていたことを覚えている。日本は、発展途上にあり、保険でも世界から相手にされるような存在ではなかった。ここで、「再保険」という言葉がキーワードになる。
 保険は、例えば、千円の掛け金を支払って、事故の際に百万円の保険金を受け取るという仕掛けになっている。千円が百万円になるということは、千人が千円ずつ出して集まった百万円を一人が総取りするということである。この時、保険会社は、いわば「胴元」の役割を果たしている。
 いわゆる博打の「胴元」と保険会社が異なるのは、千人のうち一人しか当たらないということを裏付ける確率計算ができることである。そして、もう一つ、非常に重要なことは、滅多に起こることのない大事故に備えて、保険会社もまた保険を掛けるという「再保険」という仕組みが後ろ盾として存在することだ。
 オリンピックが開かれたロンドンにロイズという名前の保険の引受機構があることを聞かれたことはないだろうか。これこそ、世界各国の保険会社が自分では手に負えないリスク(危険)について「再保険」を掛ける相手なのである。
 もちろん「再保険」はロイズだけではなく他にも大小含め数多くある。しかし、地震保険が誕生した昭和41年頃、日本の地震リスクについて手を差し出してくれる再保険者は、世界のどこを探してもいなかったのである。これこそが、地震保険が立っていたスタートラインであった。 (文責個人)

日本損害保険協会 常務理事 栗山泰史